2016年9月28日水曜日

審決取消訴訟 特許 平成27(行ケ)10242  無効審判 不成立審決 請求棄却

事件番号
事件名
 審決取消請求事件
裁判年月日
 平成28年9月20日
裁判所名
 知的財産高等裁判所第3部
裁判長裁判官 鶴岡稔彦
裁判官 杉浦正樹
裁判官 寺田利彦
 
「(1) 取消事由1-1(本件発明1の要旨認定の誤り)について
ア(ア) 法29条1項及び2項所定の特許要件,すなわち,特許出願に係る発明の新規性及び進歩性について審理するに当たっては,この発明を同条1項各号所定の発明と対比する前提として,特許出願に係る発明の要旨が認定されなければならないところ,この要旨認定は,特段の事情のない限り,特許請求の範囲の記載に基づいてされるべきであり,特許請求の範囲の記載の技術的意義を一義的に明確に理解することができないとか,一見してそ記載が誤記であることが明細書の発明の詳細な説明の記載に照らして明らかであるなどの特段の事情がある場合に限って,明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌することが許されるにすぎない(リパーゼ事件判決)。 
 本件において,本件発明1の「延伸可能でその延伸後にも弾性的な伸縮性を有する」合成樹脂(以下「本件構成」という。)が「延伸が可能で延伸をした後においても弾性的な伸縮性(との性質)を有する」ものであることは,特許請求の範囲の記載から明らかである。もっとも,同記載によれば,「二重瞼形成用テープ」である本件発明1において,本件構成に係る合成樹脂が「延伸可能」との性質を有することがいかなる技術的意義を有するのかについては,必ずしも特定することはできない。すなわち,本件構成に係る合成樹脂が「延伸」することが「二重瞼形成」に関係するのかしないのか,いかなる形で関係するのかといった点は,本件発明1の特許請求の範囲の記載から一義的に明確に理解することはできない。そうである以上,本件構成の技術的意義の理解に当たり本件明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌することは許されるというべきである。
(イ) これに対し,原告らは,本件審決ではリパーゼ事件判決にいう「特段の事情」に関する検討が脱落している,本件構成に係る特許請求の範囲の記載は,その技術的意義を一義的に明確に理解することができないというような事情はないなどと指摘して,本件審決における本件発明1の要旨認定の誤りを主張する。
 しかし,本件審決がリパーゼ事件判決の判旨を踏まえて判断していることはその記載から明らかである。また,前記のとおり,本件発明1の特許請求の範囲には「延伸可能でその延伸後にも弾性的な伸縮性を有する合成樹脂」という本件構成に係る記載のほか,「二重瞼形成用テープ」という記載も存在するところ,本件発明1の要旨の認定に当たっては,前者の記載のみでなく後者の記載をも考慮に入れることが必要である。
 そうすると,上記(ア)のとおり,本件構成に係る合成樹脂に関する技術的意義につき本件発明1の特許請求の範囲の記載から一義的に明確に理解することはできないというべきことになる。
 よって,この点に関する原告らの主張は採用し得ない。すなわち,原告ら主張の取消事由1-1は理由がない。」

「ウ 本件発明1と甲2発明の相違点について
 上記アで認定した甲2の各記載(図面を含む。)によれば,甲2発明の「テープ細帯32」は,本件審決が認定するとおり,延伸することなく,そのままの形状で皮膚に貼付され,貼付後もその形状が維持されることで,二重瞼を形成するものと認められる。
 そうすると,前記((1)ウ)のとおり,延伸させたテープ状部材の収縮力によりテープ状部材を瞼に食い込ませて二重瞼を形成するために「延伸可能でその延伸後にも弾性的な伸縮性を有する」本件発明1の「合成樹脂」と,延伸することなく,そのままの形状で皮膚に貼付され,貼付後もその形状が維持されることで,二重瞼を形成する甲2発明の「テープ細帯32」の素材として用いられる「3M社製の仕様書番号1512-3(1981年8月)のポリエチレンフィルム」とは,同一ではない。
 すなわち,本件審決が認定した相違点は実質的な相違点ということができる。
エ 相違点の容易想到性について
 上記アで認定した甲2の各記載によれば,甲2発明の「テープ細帯32」は,自然な加齢の過程の一環により生じる上眼瞼の皮膚の弛みや垂れ下がりを上眼瞼形成術という外科手術によらず,非手術的な一時的疑似上眼瞼形成術という方法で矯正しようというものである(上記ア(ア),同(イ))。すなわち,甲2発明の「テープ細帯32」は,両面に粘着剤を有しており,弛んだ上眼瞼の皮膚を持ち上げて引き伸ばした状態で,その皮膚の表面にテープ細帯32の一方の面を貼付し,次いで,引き伸ばした皮膚を下方に折りたたんでテープ細帯32の他方の面に付着させることにより,皮膚の下縁部がテープ細帯32の下縁部に沿って揃った状態の人工的な二重瞼を形成するとともに,余剰の皮膚をテープ細帯32の上に被さるようにして皮膚の弛みを解消するものである(上記ア(ウ),同(エ),同(キ)及び同(ク))。
 このように,甲2発明は,上眼瞼の弛みを解消するためにその上眼瞼に形成したひだをテープ細帯32の粘着力を利用して上眼瞼に固定し維持するものであり,本件発明1のようにテープ細帯32の収縮力を利用するものではない。そうすると,本件発明1と甲2発明とは,二重瞼の形成原理を全く異にする発明というべきである。このため,甲2発明の「テープ細帯32」の素材として用いられる「3M社製の仕様書番号1512-3(1981年8月)のポリエチレンフィルム」が,仮に延伸後に収縮性を有するものであり延伸させれば収縮力を生じるものであるとしても,相違点に係る本件発明1の構成が甲2発明から動機付けられることはない。
 したがって,相違点に係る本件発明1の構成は,当業者が甲2発明から容易に想到することができるものではない。」

「イ(ア) また,原告らは,本件発明1に係る「…細いテープ状部材に,粘着剤を塗着する」との記載は「塗着する」という動作を伴う経時的な要素を記載しているものであるから,本件発明1はプロダクト・バイ・プロセス・クレームに該当するところ,「出願時において当該物をその構造又は特性により直接特定することが不可能であるか,又はおよそ実際的でないという事情が存在する」ことはないから,「発明が明確であること」との要件に適合しない旨主張する。
(イ) 物の発明についての特許に係る特許請求の範囲にその物の製造方法が記載されている場合(いわゆるプロダクト・バイ・プロセス・クレームの場合)において,当該特許請求の範囲の記載が法36条6項2号にいう「発明が明確であること」という要件に適合するといえるのは,出願時において当該物をその構造又は特性により直接特定することが不可能であるか,又はおよそ実際的でないという事情が存在するときに限られると解される(最高裁判所第二小法廷平成27年6月5日判決・民集69巻4号700頁)ところ,本件発明1に係る上記記載は,これを形式的に見ると,確かに経時的な要素を記載するものということもでき,プロダクト・バイ・プロセス・クレームに該当すると見る余地もないではない。
 しかし,プロダクト・バイ・プロセス・クレームが発明の明確性との関係で問題とされるのは,物の発明についての特許に係る特許請求の範囲にその物の製造方法が記載されているあらゆる場合に,その特許権の効力が当該製造方法により製造された物と構造,特性等が同一である物に及ぶものとして特許発明の技術的範囲を確定するとするならば,その製造方法が当該物のどのような構造又は特性を表しているのかが不明であることなどから,第三者の利益が不当に害されることが生じかねないことによるところ,特許請求の範囲の記載を形式的に見ると経時的であることから物の製造方法の記載があるといい得るとしても,当該製造方法による物の構造又は特性等が明細書の記載及び技術常識を加えて判断すれば一義的に明らかである場合には,上記問題は生じないといってよい。そうすると,このような場合は,法36条6項2号との関係で問題とすべきプロダクト・バイ・プロセス・クレームと見る必要はないと思われる。
(ウ) ここで,本件明細書の記載を参酌すると,本件明細書には「二重瞼形成用テープは,図2に示すように,弾性的に伸縮するX方向に任意長のシート状部材11の表裏前面に粘着剤12を塗着…し,これを多数の切断面Lに沿って細片状に切断することにより,極めて容易に製造することができる。」(甲1の段落【0013】)という態様,すなわち,粘着剤を塗着した後,細いテープ状部材を形成する態様を含めて「図1及び図2に示す実施例では,弾性的に伸縮する細いテープ状部材の表裏両面に粘着剤2を塗着している」(同段落【0014】)
と記載されている。また,本件発明1は,「テープ状部材の形成」と「粘着剤の塗着」の先後関係に関わらず,テープ状部材に粘着剤が塗着された状態のものであれば二重瞼を形成し得ること,すなわちその作用効果を奏し得ることは明らかである。
 そうすると,本件発明1の「…細いテープ状部材に,粘着剤を塗着する」との記載は,細いテープ状部材に形成した後に粘着剤を塗着するという経時的要素を表現したものではなく,単にテープ状部材に粘着剤が塗着された状態を示すことにより構造又は特性を特定しているにすぎないものと理解するのが相当であり,物の製造方法の記載には当たらない
というべきである。
(エ) したがって,本件発明1は,法36条6項2号との関係で問題とされるべきプロダクト・バイ・プロセス・クレームには当たらない。この点に関する原告らの主張は採用し得ない。」

【コメント】
 本件は,特許の無効審判の不成立審決に対する審決取消訴訟の事案です。なかなか興味深い論点があるのと,技術的に複雑ではないので,学習等に用いるのに適した事例かと思います。
 
 クレームは以下のとおりです。
【請求項1】延伸可能でその延伸後にも弾性的な伸縮性を有する合成樹脂により形成した細いテープ状部材に,粘着剤を塗着することにより構成した,ことを特徴とする二重瞼形成用テープ。
 
 これに対して,原告は,進歩性なし,記載要件の不備ありなどという無効事由により無効審判を請求したのですが,無効審判ではいずれも認められませんでした。
 
 進歩性についての,主引例は甲2発明ですが,その一致点・相違点は以下のとおりです。
 
本件発明1と甲2発明とを対比すると,両者は,「合成樹脂により形成した細いテープ状部材に,粘着剤を塗着することにより構成した,二重瞼形成用テープ」である点で一致し,合成樹脂について,本件発明1では「延伸可能でその延伸後にも弾性的な伸縮性を有する」が,甲2発明では「3M社の仕様書番号1512-3(1981年8月)のポリエチレンフィルム」である点で相違する。
 
 そして,審決では作用・機能の違いが大きいとして,進歩性ありとし,訴訟の方でも,上記のとおり, 「甲2発明は,上眼瞼の弛みを解消するためにその上眼瞼に形成したひだをテープ細帯32の粘着力を利用して上眼瞼に固定し維持するものであり,本件発明1のようにテープ細帯32の収縮力を利用するものではない。そうすると,本件発明1と甲2発明とは,二重瞼の形成原理を全く異にする発明というべきである。」とされました。
 一見似ているかもしれないけど,よく見れば全く別物の発明というわけです。
 
 ただ,原告はその前提として,本件発明の要旨認定にリパーゼ判決違反があると主張します。つまり, 「特許請求の範囲の記載の技術的意義を一義的に明確に理解することができ」るのに,明細書の記載を参酌した,さらには,そういうことを検討せずにダマで明細書の記載を参酌した,との主張です。
 
 しかし, 上記のとおり,本件の判決は,これを一蹴しております。とは言え,この辺は裁判官の胸先三寸の判断ですので,「理解することはできない。」と言われた以上,それに対抗する術はないでしょう。
 
 さらに,本件で注目すべきは,PBPクレーム無効の主張がされたことです。
 地裁の無効の抗弁において被告側からの主張がされた事件が若干あるように記憶しますが(勿論,判決が公表された中です。) ,知財高裁での判断がされたのは初めてではないでしょうか。
 
 「特許請求の範囲の記載を形式的に見ると経時的であることから物の製造方法の記載があるといい得るとしても,当該製造方法による物の構造又は特性等が明細書の記載及び技術常識を加えて判断すれば一義的に明らかである場合
 
 これが判断基準になります。
 
 しかし,この基準,雑誌L&Tの73号に掲載の,知財高裁の設楽所長の論文,「クレームに、製造方法に関して経時的要素の記載があり、形式的には製法的な記載があると解される場合でも、明細書、クレームおよび図面の記載並びに技術常識に照らし、その製法的記載が意味するものの構造、特性が明確なもの(表見PBPクレーム)については、これをPBP最判が適用されるPBPクレームと解する必要はないことになる。」の記載と瓜二つと言ってよいでしょう。

 つまりは,知財高裁は,PBPクレーム無効に関して,今後,設楽所長論文の基準で判断するということを宣明したと言ってよいと思います。

 兎も角,全て無駄骨に終わった原告の主張ですが,阪神の鳥谷のトンネルのように記憶に残るプレーと言えましょう。
 
 
 

 
 
 
 

2016年9月15日木曜日

侵害訴訟 特許 平成27(ワ)23129  東京地裁 請求棄却

事件番号
事件名
 特許権侵害差止等請求事件
裁判年月日
 平成28年8月30日
裁判所名
 東京地方裁判所民事第46部
裁判長裁判官 長谷川 浩二
裁判官 藤原典子
裁判官 中嶋邦人

「 (1) 乙6発明と本件発明の一致点及び相違点
ア 乙6ウェブページは本件特許の出願前である平成19年6月14日にインターネット上で公開されたものであるから(乙6,弁論の全趣旨),乙6ウェブページに掲載された乙6発明は日本国内において電気通信回線を通じて公衆に利用可能となった発明(特許法29条1項3号)に当たる。
 そして,証拠(乙6)及び弁論の全趣旨によれば,乙6発明は,水,グリセリン,クエン酸(本件発明の「pH調整剤」に相当する。),リン酸アスコルビルマグネシウム,オレイン酸ポリグリセリル-10(同「ポリグリセリン脂肪酸エステル」に相当する。),ヘマトコッカスプルビアリス油(同「アスタキサンチン」に相当する。),トコフェロール,レシチン(同「リン脂質」に相当する。)等の35の成分を含む美容液(同「スキンケア用化粧料」に相当する。)に関する発明であり,このうちオレイン酸ポリグリセリル-10,ヘマトコッカスプルビアリス油及びレシチンはエマルジョン粒子となっているものであると認められる。
 そうすると,本件発明と乙6発明は,本件発明のpHの値が5.0~7.5の範囲であるのに対し,乙6発明のpHの値が特定されていない点で相違し,その余の点で一致する。
イ これに対し,原告は,当業者は乙6ウェブページに掲載されている内容は原告旧製品の全成分であると認識するところ,原告旧製品のpHの値は7.9~8.3であるから,本件発明と乙6発明の相違点は,本件発明のpHの値が5.0~7.5の範囲であるのに対し,乙6発明のpHの値が7.9~8.3の範囲である点となる旨主張する。
 そこで判断するに,原告の上記主張は,原告旧製品自体の成分を検査すればpHの値を知ることができるというにとどまるものであって,本件の関係証拠上,技術常識を踏まえてみても乙6ウェブページに掲載されている内容自体からpHが7.9~8.3であると導くことができるとは認められない。したがって,乙6発明においてpHの値は特定されていないと解するのが相当であって,原告の上記主張を採用することはできない。
(2) 相違点の容易想到性
ア 後掲の証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の事実が認められる。
(ア) 化粧品(医薬品,医療機器等の品質,有効性及び安全性の確保等に関する法律2条2項の「医薬部外品」及び同条3項の「化粧品」に当たるもの)の基本的かつ重要な品質特性としては,安全性,安定性,有用性,使用性が挙げられ,化粧品の設計に当たっては,まず配合薬剤の基剤中における安定性に留意する必要がある。薬剤の安定化にはpH,温度,光,配合禁忌面から同時に配合する成分の影響を把握しておくことが重要となる。安定化の方法としては,酸素を断つ方法や酸化防止剤の配合,pH調整剤,金属イオン封鎖剤の配合や最適配合量の水準,不純物質の除去,生産プロセスにおける温度安定性の工夫,原料レベルでの安定な保管などの方法がある。化粧水等の化粧品の品質検査項目としては,外観や匂い等の官能検査,pH,比重,透明度,粘度,有効成分等の定量試験などの項目があり,化粧品の安定化を図るためにpH調整剤を用いることやpHを測定することは一般的に行われている。(乙9の1及び2,27)
(イ) 皮膚に直接塗布する化粧品のpHは,皮膚への安全性を考慮して,弱酸性(約pH4以上)~弱アルカリ性(約pH9以下)の範囲で調整される。実際に市販されている化粧品については,そのpHが人体の皮膚表面のpHと同じ弱酸性の範囲(pH5.5~6.5程度)に設定されているものも多い。(乙8の1~6,22)イ 上記の認定事実によれば,化粧品の安定性は重要な品質特性であり,化粧品の製造工程において常に問題とされるものであるところ,pHの調整が安定化の手法として通常用いられるものであって,pHが化粧品の一般的な品質検査項目として挙げられているというのであるから,pHの値が特定されていない化粧品である乙6発明に接した当業者においては,pHという要素に着目し,化粧品の安定化を図るためにこれを調整し,最適なpHを設定することを当然に試みるものと解される。そして,化粧品が人体の皮膚に直接使用するものであり,おのずからそのpHの値が弱酸性~弱アルカリ性の範囲に設定されることになり,殊に皮膚表面と同じ弱酸性とされることも多いという化粧品の特性に照らすと(前記ア(イ)),化粧品である乙6発明のpHを上記範囲に含まれる5.0~7.5に設定することが格別困難であるとはうかがわれない。
 そうすると,相違点に係る本件発明の構成は当業者であれば容易に想到し得るものであると解するのが相当である。
ウ これに対し,原告は,①乙6ウェブページは原告旧製品に関するものであり,●(省略)●その解決手段としては様々なものがあるから,pHを調整するという手段を選択することは容易になし得ない,③乙6発明に含まれるリン酸アスコルビルマグネシウムはpHが酸性~中性の範囲で不安定な成分であることが技術常識であったから,pHの値を酸性側である5.0~7.5に変更することには積極的な阻害要因があった,④本件発明はpHを5.0~7.5の範囲とすることで●(省略)●アスタキサンチンの安定性の大幅な向上という顕著な効果を奏したなどとして,本件発明は進歩性を有する旨主張する。
 そこで判断するに,まず,上記①及び②については,前記イで説示したとおり,安定性は化粧品の製造工程において常に問題とされる化粧品の品質特性であり,pHの調整が安定化のための一般的な手法であることからすれば,乙6ウェブページに掲載されている成分リストが販売開始から間もない原告旧製品のものであるとしても,当業者が化粧品の安定性の確保,向上という課題を全く認識しないということはできないし,pHの調整という手法を採用することが困難であったということもできない。
 次に,上記③については,原告は乙6発明のpHが7.9~8.3であることを前提にこれを酸性側に変更することの阻害要因を主張するが,そのような前提を採ることができないことは前記(1)イのとおりである。この点をおくとしても,後掲証拠及び弁論の全趣旨によれば,本件特許の出願当時,(a)リン酸アスコルビルマグネシウム単体の水溶液については,pHが8~9の弱アルカリ性の領域においては安定とされていたが,pHが中性~酸性の範囲においては安定性に問題があるとされていたこと(甲30~32,50~55),⒝リン酸アスコルビルマグネシウムを含む化粧料について,弱酸性における安定性を改善する手法が検討されており(甲31,50~52,61,乙10の2,25),実際にリン酸アスコルビルマグネシウムを含有する弱酸性の化粧品が販売されていたこと(乙28,29)が認められる。これら事実関係によれば,リン酸アスコルビルマグネシウムに加え他の成分を含む化粧品については,弱酸性下における安定性の改善が試みられており,現に製品としても販売されていたのであるから,原告が主張するリン酸アスコルビルマグネシウム単体の水溶液が酸性下においてその安定性に問題があるという事情は,乙6発明の美容液のpHを弱酸性の範囲に調整することの阻害要因とならないと解するのが相当である。
 上記④については,前記イで説示したとおり,pHの調整が化粧品の安定性を高めるための手法として周知であったことからすると,本件発明の実施例について吸光度の残存率の高さや性状変化の少なさといった経時安定性の測定結果が良好であったとしても(本件明細書の【表4】~【表6】),●(省略)●予測し得る範囲を超えた顕著な効果を奏するとは認められない。
したがって,原告の上記主張①~④はいずれも採用することができない。
(3) まとめ
 以上によれば,本件発明は乙6発明に基づいて容易に発明することができたものであるから,原告は本件特許権を行使することができない。」

【コメント】
 本件は,大手の会社同士(富士フイルムとDHC)で化粧品を巡って争われた特許権侵害訴訟の事件です。
 マスコミでも多少報道されたようです。

さて,クレームは以下のとおりです(第5046756号)。
本件発明1
1-A (a)アスタキサンチン,ポリグリセリン脂肪酸エステル,及びリン脂質又はその誘導体を含むエマルジョン粒子;
1-B (b)リン酸アスコルビルマグネシウム,及びリン酸アスコルビルナトリウムから選ばれる少なくとも1種のアスコルビン酸誘導体;並びに
1-C (c)pH調整剤
1-D を含有する,pHが5.0~7.5のスキンケア用化粧料。


 被告は,多少構成要件該当性を争ってはいるのですが,本件でのポイントは無効論の方です(進歩性)。

 本件では,主引例が,乙6という,本件特許の出願の5ヶ月前に発売された原告の旧製品のウェブ上のデータのようです。

 そして,その主引例発明との一致点・相違点は,以下のとおりとなります。
本件発明と乙6発明は,本件発明のpHの値が5.0~7.5の範囲であるのに対し,乙6発明のpHの値が特定されていない点で相違し,その余の点で一致する。

 つまり,pHが若干酸性寄りなのですね。他方,乙6のpHは不特定とはなっていますが,実際には若干アルカリ性寄りだったようです(乙6発明のpH(7.9~8.3))。

 さて,本件の判決ですが,人間の肌に使うものなのだから,そのpHを肌のpHと大体同じくらいに設定するということは,容易想到としているわけです。

 これに対して,上記の報道のとおり,無効審判(2015-800026)では真逆の結果です。
 無効審判でも同じ証拠が使われておりますが(無効審判での甲1),無効審判では,pH値の違いについて,動機付けがないとされております。

甲3の1~甲3の6からは、化粧品のpHを弱酸性~弱アルカリ性とすることは技術常識であるように見受けられる。また、甲4の1~甲4の2からは、化粧品 のpHのコントロールは化粧品の安定化の一つの手段であることが認識できる。しかし、甲1に記載された「エフ スクエア アイ インフィルトレート セラ ム リンクル エッセンス」は乙1を参照すれば●(省略)●の化粧品であるといえる。そして、例え上記技術常識があるとしても、引用発明1にかかる技術常 識を導入する契機、すなわち、かかる化粧品を弱酸性~弱アルカリ性と設定することの動機づけとなるような記載を甲1から見出すことはできない。このため、 上記技術常識や甲4の1~甲4の2の記載事項をもってしても、本件特許発明1が、引用発明1、あるいは引用発明1と甲3の1~甲3の6、甲4の1~甲4の 2の記載に基づいて当業者が容易になし得たものとはいえない。

 ですので,審決は,pHの違いが微差ではなく,動機付けが必要なものであると考え,その動機付けになるものが無かったので,進歩性ありとしたのでしょうね。
 他方,判決は上記のとおりで,pHの違いが微差であり,設計事項等であると判断したのだと思います。 

 さて,原告の方は,当然おさまりがつかず,控訴するのだと思いますし,審決の方は,既に出訴されています(平28行ケ10092で,知財高裁の1部に係属。)。
 ですので,今後は,知財高裁の1部で決着がつくのだと思います。

 で,その結論予想ですが,審決と判決を比べて見ると,判決に分があるかなと思います。やはり,引例との差がpH値しかないというのは,典型的な数値限定発明と言え,そうすると,数値の臨界点意義がないとこれで進歩性を認めるのが難しいからです。

 審決の方は,若干権利者に優し過ぎる感がありますね。

 なお,和解もあるかもしれません。今後要注目です。

2016年9月8日木曜日

侵害訴訟 特許 平成26(ワ)25928  東京地裁 請求棄却

事件番号
事件名
 損害賠償請求事件
裁判年月日
 平成28年8月30日
裁判所名
 東京地方裁判所第47部
裁判長裁判官 沖 中 康 人
裁判官 矢 口 俊 哉
裁判官 村 井 美喜子
 
「(1)ア 本件発明の構成要件Gは,「前記制御手段は,前記記憶した探索開始地点と,当該経路データが設定され,前記移動体の経路誘導が開始される時点の当該移動体の現在位置を示す誘導開始地点と,が異なる場合に,前記誘導開始地点からの前記移動体の誘導開始に基づいて前記誘導情報出力手段を制御する」というものであるから,上記構成要件の文言によれば,本件発明は,探索開始地点と誘導開始地点とを比較して両地点が異なることという要件を充たす場合に,所定の制御を行うものであることが明らかというべきである。
イ 前記1認定の本件明細書の記載をみても,【作用】欄には,「本願請求項1または6に記載のナビゲーション装置または方法の発明では,移動体が経路探索を開始した探索開始地点と,当該経路が設定された誘導開始地点とが異なる場合に,具体的には,探索開始地点から経路を設定するまでの間に移動体が移動することにより経路探索を行う際に用いた移動体の現在位置とは異なる位置から誘導を開始する場合に,的確に移動体の実際の現在位置に対応する経路誘導を正確に行うことができる。…」(段落【0018】)との記載があり,【発明の効果】欄にも,「本願発明によれば,移動体が経路探索を開始した探索開始地点と,当該経路が設定された誘導開始地点とが異なる場合に,具体的には,探索開始地点から経路を設定するまでの間に移動体が移動して経路探索を行う際に用いた移動体の現在位置とは異なる位置から誘導を開始する場合に,的確に移動体の実際の現在位置に対応する経路誘導を正確に行うことができる。…」(段落【0038】)との記載があり,これらの記載は,「本件発明は探索開始地点と誘導開始地点とを比較して両地点が異なるか否かを判断するものである」という構成要件Gに係る上記解釈を裏付けるものである。
ウ さらに,本件特許の出願経過からも上記解釈は裏付けられる。すなわち,原告は,本件特許の審査段階において,特許庁から平成15年1月21日発送の拒絶理由通知(乙8)を受けたところ,そこには「…請求項1の記載では本願発明の目的である通過すべき経由地点の設定中にすでにそれらの経由地点のいずれかを通過してしまった場合でも,正しい経路誘導を行うための構成である『設定指令が入力された時点での車両現在位置を探索開始地点として記憶し,この記憶された探索開始地点と,経路データが設定され移動体の経路誘導が開始される時点での移動体の現在位置を比較する』点が明確に記載されていない。…よって,請求項1は,特許を受けようとする発明の構成に欠くことができない事項のみを記載したものではない。」とされていた。原告は,上記拒絶理由通知に対応して,同年2月5日受付の意見書(乙9)を提出し,そこにおいて「審査官殿のご指摘の通り,本願発明における探索開始地点と経路誘導地点に関する上述の点が不明瞭であると考えますので,『設定指令が入力され,経路の探索を開始する時点の前記移動体の現在位置を探索開始地点として記憶する記憶手段』と構成要件を加えることにより,探索開始地点が記憶されることを明確にするとともに,経路データ設定手段が『記憶した探索開始地点を基に経路の探索を行い,当該経路を経路データとして設定する』と補正して探索開始地点と経路データの関係を明確にし,制御手段おける記憶された探索開始地点と誘導開始地点を比較する点を明確に致しました。」(1頁下9行~2行)と記載し,併せて,同日受付の手続補正書(乙10)を提出して上記記載に沿った補正を行い,探索開始地点と誘導開始地点とを比較することを明確にしたものである。以上の出願経過も,構成要件Gに係る上記解釈を裏付けるものである。
(2) しかるところ,被告装置において,「探索開始地点」と「誘導開始地点」を比較して両地点が異なるかどうかを判断しているものと認めるに足りる証拠はない。
かえって,証拠(乙16の1)によれば,被告装置においては,①経路誘導の計算が行われ,これが終了すると,出発地点P0から目的地Pnまでの経路を示す経路リンクのリストがメモリに保存され,②他方で,上記①の経路誘導とは独立して,継続的に,車両の現在位置Cと地図データの地図リンクとのマッチングが行われ,その際,車両の現在位置Cと,地図データのノード間を結ぶ地図リンクとを比較することで,車両の現在位置Cと一致する地図リンクを特定し,③上記②のマップマッチングで特定されたリンクが上記①の経路リンクの一つと直接対応すると,道路境界領域の処理は行われず,その代わりに地図リンクと一致する経路リンクに基づいて誘導が行われ,他方で,現在位置Cが,マップマッチングによって特定された経路リンクに載っていない場合,所定の方法で絞り込んだ道路境界領域内のリンクと現在位置とを比較してリンク上に載っているか否かの判定をするとの作業が行われていることが認められる。
 なお,乙16の1は,補助参加人の関連会社所属のエンジニアが作成した宣誓書であるが,同記載内容は,被告装置の制御に関する他の証拠とも矛盾がなく,これを特段疑う理由もないから,信用できるものといえる。
 以上からすれば,被告装置では,探索開始地点と誘導開始地点とを比較して両地点が異なるか否かを判断するという作業は行われず,あくまで,車両の現在位置が所定の経路リンク上に載っているか否かが判定されているにすぎないから,被告装置は本件発明の構成要件Gを充足しないものというべきである。」 

【コメント】
 大手同士(被告の補助参加人がガーミンですので。)のカーナビ関係の特許権侵害訴訟の事案です。 

 と言って,構成要件充足性が無く,あっさりと棄却になっております。それにしても,事件番号の割に時間がかかっていますが,何かあったのでしょうかね。

 クレームは以下のとおりです。
A 移動体の現在位置を測定する現在位置測定手段と,
 B 前記現在位置から経由地を含む前記移動体が到達すべき目的地までの経路設定を指示する設定指令が入力される入力手段と,
 C 前記設定指令が入力され,経路の探索を開始する時点の前記移動体の現在位置を探索開始地点として記憶する記憶手段と,
 D 前記記憶した探索開始地点を基に前記経路の探索を行い,当該経路を経路データとして設定する経路データ設定手段と,
 E 前記移動体の現在位置と前記設定された経路データとに基づいて前記移動体を目的地まで経路誘導するための誘導情報を出力する誘導情報出力手段と,
 F 前記移動体の移動に基づいて前記誘導情報出力手段を制御する制御手段と,を備え,
 G 前記制御手段は,前記記憶した探索開始地点と,当該経路データが設定され,前記移動体の経路誘導が開始される時点の当該移動体の現在位置を示す誘導開始地点と,が異なる場合に,前記誘導開始地点からの前記移動体の誘導開始に基づいて前記誘導情報出力手段を制御する
 H ことを特徴とするナビゲーション装置。
 
 ポイントは,構成要件Gの解釈です。

 被告装置は,カーナビによくあるパターンで,「被告装置は,単に車両の現在位置と車両の進行方向に基づいて,車両の現在位置が設定されたルート上にある場合には,車両の進行方向に基づいて設定されたルート上の次の転換点を案内する制御を行っているにすぎない」のです。

 つまり,被告装置は,本件特許に言うような最初の「探索開始地点」などをいちいち参照しないわけです。
 
 カーナビって,安全面から移動中は操作できないのがデフォーですが,まあそこの所は措いておいて,操作等に時間がかかり,最初の始点からもうずれているって場合もあり得ます。
 
 その場合にどうやって補正というか修正をするかという技術です。
 
 本件特許の場合,上記のクレームのとおり,ずれたら,現在の所在の点と最初の始点とを比較するってやつです。
 他方,被告装置の場合,ずれたら,最初の始点なんか捨象して,現在の所在の点と,目的地から再度ルートを探すってやつです。

 そうすると,制御の方法は結構違います。

 原告は色々言っているようですが,補正等の際,意見書で色々言っていたようで,広い解釈はちょっと無理でした。
 致し方無い結論と思います。

2016年9月5日月曜日

開設1年

 昨年の9月4日に開設したこのブログも,ちょうど1年過ぎました。
 今も何とか続いており,飽きやすい私にしては良かったなと思っております。

 最初の趣旨としては,特許の判決,特に技術まで解説したものがなかなか無いということでした。

 技術分野を狭くということであれば,この「医薬系”特許的”判例”」ブログが,医薬系ではピカ一だと思います。
 管理人の方が製薬会社のインハウスの弁理士ということで,技術的にも,法的も間違いが無く,非常に良いものです。
 とは言え,医薬系とあるとおり,技術分野が限られております。

 その他,かなり踏み込んだコメントが得られるものとして,企業法務戦士の雑感があります。ただ,最近お忙しいようで,特許の裁判例での詳細な解説はあまりやっていないようです。

 その他弁理士や弁護士の,特許の裁判例を扱ったブログもあるのですが,判旨だけだとか更新がたまにしか無いなどとか,どれもこれも私のニーズには応えてくれないものばかりです。

 そこで,仕方がなく,自分でこういうのがあったら良いなあと思うものを自分でやることにしました。
 特許の裁判例について,技術の説明から解説を始めるもの,をです。

 とは言え,やってみると,結構しんどく,忙しいときはなかなか更新ができません。技術的な解き明かしと,法的な解き明かし,両方やらないといけませんので。

 しかし,コンスタントにやってみましたので,そこそこのアーカイブ的な価値も出てきたように思えます。
 自分でサイト内検索をやって,昔の判決を調べることもときどきやったりします。

 これからも細々と続けていこうと思います。

2016年9月1日木曜日

審決取消訴訟 特許 平成27(行ケ)10216  訂正審判 不成立審決 請求棄却

事件番号
事件名
 審決取消請求事件
裁判年月日
 平成28年8月29日
裁判所名
 知的財産高等裁判所第2部
裁判長裁判官清水 節
裁判官片岡早苗
裁判官古庄 研 

「(3) 本件公報に接した当業者の認識について
ア 前記(2)イのとおり,本件訂正前の明細書には,燐酸を示す化学式として,ホスホン酸の化学式が6か所にわたり記載されているというのであるから,「スルホン酸,燐酸及びカルボン酸からなる群」に含まれない「オクタデシルホスホン酸」が作用成分として記載されていることとも相まって,本件公報に接した当業者は,「燐酸」又は「リン酸」という記載か,ホスホン酸の化学式及び「オクタデシルホスホン酸」という記載のいずれかが誤っており,請求項1の「燐酸」という記載には「ホスホン酸」の誤訳である可能性があることを認識するものということができる。
イ しかし,更に進んで,本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるといえるかを検討すると,前記(1)イのとおり,請求項1の「燐酸」という記載は,それ自体明瞭であり,技術的見地を踏まえても,「ホスホン酸」の誤訳であることを窺わせるような不自然な点は見当たらないし,前記(2)アのとおり,本件訂正前の明細書において,「燐酸」又は「リン酸」という記載は11か所にものぼる上,請求項1の第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤としてスルホン酸,カルボン酸と並んで「燐酸」を選択し,その最適な実施形態を確認するための4つの比較実験において,燐酸や燐酸基が使用されたことが一貫して記載されている。
 そうすると,化学式の記載が万国共通であり,その転記の誤りはあり得ても誤訳が生じる可能性はないことを考慮しても,本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるということはできない。
 以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)を訂正することは,本件公報に記載された特許請求の範囲の表示を信頼する当業者その他不特定多数の一般第三者の利益を害することになるものであって,実質上特許請求の範囲を変更するものであり,126条6項により許されない。
(4) 原告の主張について
ア 原告は,前記(2)イによれば,本件公報に接した当業者は,「燐酸(又はリン酸)」と「ホスホン酸」のいずれかが誤りであることを予測することができたとした上で,原文明細書等を参照すれば,ホスホン酸を示す記載はあるが,燐酸を示す記載はないから,当業者は,訂正前の「燐酸(又はリン酸)」が「ホスホン酸」の誤訳であることを認識することができた旨主張する。
 しかしながら,126条6項の要件適合性の判断に当たり,原文明細書等の記載を参酌することはできないから,原告の主張は採用できない。すなわち,同項は,第三者に不測の不利益が生じることを防止する観点から,訂正前の特許請求の範囲には含まれないこととされた発明が訂正後の特許請求の範囲に含まれるという事態が生じないことを担保するために,訂正後の特許請求の範囲が訂正前の特許請求の範囲を実質上拡張又は変更したものとなることを禁止したものである。そして,特許権が設定登録により発生すると,願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容が特許公報に掲載されて,第三者に公示され(66条1項,3項,29条の2),第三者が利害関係を有する特許権の禁止権の範囲である特許発明の技術的範囲は,この願書に添付した特許請求の範囲に基づいて定められ,その用語の意義はこの願書に添付した明細書及び図面を考慮して解釈するものとされている(70条1項,2項)。ところで,本件特許のような外国語特許出願においては,出願人は,翻訳文明細書等及び要約の日本語による翻訳文を提出しなければならないとされており(184条の4第1項),翻訳文明細書等及び国際出願日における図面(図面の中の説明を除く。)(以下「国際出願図面」という。)が36条2項の願書に添付した明細書,特許請求の範囲及び図面とみなされる(184条の6第2項)。このように,本件特許のような外国語特許出願においては,特許発明の技術的範囲は,翻訳文明細書等及び国際出願図面を参酌して定められ,原文明細書等は参酌されないから,126条6項の要件適合性の判断に当たっても,翻訳文明細書等及び国際出願図面を基礎に行うべきであり,原文明細書等を参酌することはできないというべきである。原告の主張するように,同項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌することができると解した場合には,誤訳の訂正の許否は原文明細書等を参酌しないと決することができないことになるから,訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。
 これに対して,原告は,原文明細書等は126条1項2号の要件適合性の判断に使用される資料であり,同条1項と同条6項の条文の配置からすると,同条6項は訂正目的に応じて判断基準が異なることを当然の前提としており,原文明細書等を同項の要件適合性の判断に使用することができる旨主張する。しかしながら,同条1項2号の要件適合性と同条6項の要件適合性とは別個の訂正要件についての判断であるから,その要件適合性の判断に当たり参酌できる資料の範囲についてもそれぞれの訂正要件の目的に応じた解釈がされるべきものであり,同条1項2号の要件適合性の判断に当たり参酌できる資料であることは同条6項の要件適合性の判断に当たり参酌できることを基礎付けるものではない。そして,同条6項の要件適合性の判断に当たっては,同項の趣旨に照らし,原文明細書等を参酌することができないことは既に説示したとおりである。
 また,原告は,第三者が無効審判請求において原文明細書等を証拠とできることとの均衡や証拠共通の原則,あるいは,審査段階で審査官が記載の不備を発見して拒絶理由通知をした場合との均衡などを主張する。しかしながら,特許権者は自らの責任において誤訳を含む翻訳文明細書等を提出し,その後も誤訳の訂正を目的とする補正を行う機会が与えられていたにもかかわらず,その機会を活かすことなく,誤訳を含んだまま設定登録を受けて,特許権を発生させたのであるから,特許公報に掲載された願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容に基づいて特許発明の技術的範囲を認識する第三者の信頼を保護するために,特許権者が一定の不利益を被ることがあったとしてもやむを得ないものというべきである。原告主張の各事情は,第三者に不測の不利益が生じることを防止することを目的とする126条6項の「特許請求の範囲」を判断するに当たり,第三者が原文明細書等を参酌しないにもかかわらず,これを参酌できるものとする根拠とはならない。
 さらに,原告は,外国語特許出願については,国際公開番号が国内公表の対象になっており,特許掲載公報に原文明細書等が含まれないのは既に公開されているからである旨主張する。しかしながら,外国語特許出願に係る特許においては,特許発明の技術的範囲は,願書に添付した特許請求の範囲とみなされる国際出願日における請求の範囲の翻訳文に基づいて定められ,その用語の意義は願書に添付した明細書及び図面とみなされる国際出願日における明細書及び図面の中の説明の各翻訳文,国際出願図面を考慮して解釈されるのであるから,原文明細書等は第三者が特許発明の技術的範囲を把握するために必要となるものではない。また,原文明細書等は,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載されたものであり,第三者がこれを参酌するためには,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担する必要がある。そうすると,たとえ第三者が国際公開番号の開示を受けたとしても,訂正前の特許請求の範囲を把握するために原文明細書等を参酌することが一般的であるということはできない。したがって,国際公開番号が第三者に開示されることは,126条6項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌できるものとする根拠とはならない。
イ 原告は,126条6項の要件適合性は「第三者に不測の損害を与えるか否か」を判断基準とすべきであり,「第三者の不測の損害」は技術分野等を勘案して個別具体的に決定すべきであるところ,本件発明を実施することができる第三者は電力会社や3つの陣営にほぼ集約された原子炉メーカーに限られるし,本件特許の技術分野における競業他者は米国や欧州で設定登録された特許権のクレームを監視するのが通常であり,本件公報の発行から本件訂正の予告登録までは4か月余りにすぎず,この間に本件訂正後の特許請求の範囲に係る発明が実施又は実施の準備をされていたとは考えられないから,本件特許の訂正を認めたとしても,第三者に不測の損害を与えることにはならない旨主張する。
 しかしながら,原告の主張は,「実質上特許請求の範囲を拡張し,又は変更するものであってはならない」という126条6項の文理を離れた独自の解釈というほかなく,到底採用することはできない。
ウ 原告は,本件訂正前の明細書の【発明を実施するための形態】の欄には,ホスホン酸に関する発明が記載されているものの,燐酸(又はリン酸)に関する発明の実施例については一切記載されていないから,本件特許の訂正を認めたとしても,第三者に不測の損害を与えることにはならない旨主張するが,前記(2)アのとおり,本件訂正前の明細書の【発明を実施するための形態】の欄(【0011】ないし【0032】)には,本件発明の第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤としてスルホン酸,カルボン酸と並んで燐酸を選択し,その最適な実施形態を確認するための4つの比較実験において,燐酸や燐酸基が使用されたことが一貫して記載されているほか,第2の処理溶液の界面活性剤として燐酸誘導体を使用した場合の最良の結果が得られるpH値の範囲や,第2の処理溶液の作成方法として燐酸又はリン酸塩を添加することなどが記載されている。原告の主張はその前提を欠くものであり,失当である。
エ 原告は,外国語特許出願に係る特許について誤訳の訂正を目的として特許の訂正をする場合,発明特定事項は変更されるのが通常であるから,発明特定事項を変更することが直ちに実質上特許請求の範囲を変更することに当たるものではないし,発明特定事項を変更するものであることを理由に特許請求の範囲を実質的に変更するものであるという審決の判断は,126条1項2号,184条の19を無意味にするものであると主張する。
 しかしながら,審決は,原告の平成27年3月23日付け意見書の主張に対する判断の中で,「訂正前の明細書には,『-PO3H2』基と同時に『燐酸』基の記載もされており,『燐酸』基の化学式は,上記ホスホン酸基『-PO3H2』と類似している-PO4H2であるため,どちらの記載が正しいか決められるものでなく,訂正前の明細書の記載から,当業者が,訂正前の特許請求の範囲における『燐酸』が正しくは『ホスホン酸』と記載されるべきものであると理解し得るとはいえない。また,上述のように,訂正前の明細書においては『燐酸』基と『-PO3H2』基の記載が混在している状況で,訂正前の特許請求の範囲には『燐酸』と記載されていることから,特許請求の範囲に記載された『燐酸』が正しいと第三者が理解することが通常であるといえる。すると,訂正前の特許請求の範囲の記載を『燐酸』から『ホスホン酸』に訂正することは,第三者の通常の理解とは異なるものとなるから,訂正によって第三者への不利益が生じることは明らかである。」と説示するように,訂正前の特許請求の範囲に記載された「燐酸」と訂正後の「ホスホン酸」という記載とを形式的に比較して判断したものではなく,訂正前の特許請求の範囲に記載された「燐酸」が当業者(第三者)に「ホスホン酸」と理解され,訂正の前後を通じて特許請求の範囲に変更がないといえるか否かを実質的に検討していることが明らかである。したがって,審決は,発明特定事項についての誤訳の訂正であることから直ちに実質上特許請求の範囲を変更することに当たるものと判断したものではない。
 上記のように訂正の前後を通じて特許請求の範囲に変更がないといえるか否かを実質的に検討する審決の判断が,126条1項2号や184条の19の存在意義を失わせるものでないことは明らかであり,原告の主張は失当である。
(5) 小括
 以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものであるとして,本件訂正は認められないと判断した審決に誤りはない。」

【コメント】
 訂正審判の事件という,ここで紹介するのがはじめてのものです。
 
 訂正前のクレームは以下のとおりです。
【請求項1】
-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水溶性の処理溶液で剥離し,
-これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水溶性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,燐酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水溶性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。
」 
 
 他方,訂正後のクレームはこうです(認められなかったやつです。)。
「【請求項1】
-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水性の処理溶液で剥離し,
-これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,ホスホン酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。
」 

 要するに,燐酸をホスホン酸に訂正する,というものです。

 審決は,「本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,いずれも「燐酸」ないし「リン酸」の記載個所に対応する原文の記載個所には「Phosphonsäure」と記載されており,その日本語訳は「ホスホン酸」であるから,特許法126条1項2号(以下,条文番号を示す際は,特に断らない限り,特許法を示すものとする。)に規定する「誤訳の訂正」を目的とするものであるが,特許請求の範囲の請求項1における構成の一つである「燐酸」を異なる物質である「ホスホン酸」に訂正することは,上記請求項1の発明特定事項を変更するものであり,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものである。
 
 誤訳なんだろうけど,クレームを実質的に変更するものだから,ダメよというわけです。
 
 ちなみに,燐酸とホスホン酸との違いは, 「燐酸の化学式は「H3PO4」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは4個)であり,ホスホン酸の化学式は「ROP(OH)2」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは3個)である(甲16)」らしいです。
 つまり,構成される原子は同じですが,結合の仕方がちょっと違うというもののようです。
 
 それ故, 訳者が間違えたのでしょう。ちなみに,どこが訳したのかは分かりません。
 パターンとしては,外国の出願人が独自に翻訳して(勿論業者に頼むこともあります。),日本の弁理士に依頼するというパターンもありますし,外国語の明細書を日本の弁理士送付し,翻訳から出願から全部依頼するパターンもあります。
 本件だと,前者なら,日本の事務所の責任になりませんが,後者だったらアイタタタです。

 さて,判決は,それだったらこういうときにマズイでしょ,という原告の反論を尽く退けています。
・原文みればホスホン酸とわかりますよ→ 126条6項の基準は原文じゃない
・無効審判なら原文見れるじゃないですか→自分で気付かず設定登録したのでしょ
・本件では燐酸の実施例なんてない→よく見ると載っているじゃない
・そんな言うなら誤訳の訂正なんてできない→本件では明らかな誤り(誤訳)かどうか分からん

 結局のところ,裁判所が価値判断として,何を尊重したかというと,
訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。
の所なのだと思います。
 
 だから,今回はNGとしたのです。それ故,誰がどう見ても,これは誤記だったり誤訳だったりするものまでNGとしたわけではありません。
 
 とは言え,これは誤記(誤訳)なんだから,フリーハンドで訂正(補正も)が許される,と思うのは安易だということだと思います。